鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第十四話 1/2
第三章 決死編

三軒屋から下山

しかし、敗戦のショックで、多くの者が体力、精神力の限界となった。
「もう歩けない、立つこともできない、言葉も出ない」
幾十人もの兵隊がその場で倒れ込んだ。
私も同様の状態となった。
「水が欲しい、何か食べるものはないか」
と思うが、何一つない。もはや精も根も尽きはて、
「もう自分はこの場で死んでもよい」
と考えた。

意識も朦朧として、ほとんど人事不省に陥りかけたとき、
「鎌田よ、ここで犬死にするのか。野垂れ死にするのか。大阪で妻や子が待っているではないか。元気出せ!さあ立て!」

班長殿が自分の両手を引っ張ってくれたのである。おかげでようやく立ち上がって我に返ることができた。なるほど自分には、待っていてくれている妻子がある。そのことに気付いたのであった。

「ようし、ここで死んでたまるか。動けなくなれば誰にも助けてはもらえない。四つん這いになっても進むのだ。」

自分自身との、最後の気力の戦いである。ファームスクールまでたどりつけば、そこに何十台かの米軍のトラックが迎えに来てくれているとのことだった。

「鎌田頑張れ!頑張れ!何時頃までに下山できないと、助かる命も助からないのだぞ」

班長殿の叱咤激励が続く。その下山の行程何キロであったか忘れたが、無我夢中であった。そしてようやくにして麓にたどりつき、米軍トラックに便乗することができた。

今から回顧して思うことは、日本軍は比島で戦勝の時、バターン半島で米兵たちに「死の行軍」をさせたが、これらはまったく無謀で残虐な行為だったということだ。米軍のわれわれ敗者に対する扱いは意外に寛大であった。これはソ連の日本兵に対する非人間的な扱いとも比較されることである。

昭和20年9月14日

ついに敵の軍門に降る。降伏はまったく考えていなかっただけに、故郷の人々に、また日本の同胞に申し訳なさを感じる。皇軍無敵と信じ、最後の勝利を期して戦ってきたが、日本軍は現実に敗れた。まことに慚愧にたえない。

武装解除のとき

自分の記憶では下士官、兵は最終的にファームスクールにて武装解除となった。このとき、自分が最後まで肌身はなさず持っていた妻子の写真も米兵に取られてしまった。守護神として持っていただけに、返してもらうべく懇願したが聞いてもらえず、残念無念であった。身に付けていた手帳も鉛筆も全部没収されてしまった。

サンセホまでトラック、サンホセからはマニラ経由で南下してカランバに夜到着し、収容された。移動の道中ではフィリピン人たちから「馬鹿野郎」と罵られ、彼らの投石が続いたことが今だに思い出される。
この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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