鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第十二話 1/2
第三章 決死編

夜行軍・さらに部隊は北進

毎日夕暮れになると部隊長より出発命令が出る。果てしない山野を越えて北へ北への前進あるのみであった。途中、米軍による砲声が鳴り響き、爆撃も絶え間ない。悲愴感に満ちた毎日であった。兵たちはとっくに疲労困憊の極に達しており、精神も肉体も、人間の生命の限界を越えていた。

行動途中、部隊員が路上に次々に倒れて行く。その姿に、何と言ってよいか言葉も出なかった。倒れた兵は上官に、

「もうこれ以上歩けません。自分はこの場所で死んでもよいから先へ進んで下さい」

と懇願する。上官はこれを引きずり起こそうとし、叱咤激励するのだが、その厳しい愛の鞭もついに通じない。毎日毎日、我が将兵がこのような運命を辿ったのであった。

行軍途中で倒れると、半日もすれば身体に蛆虫がわいてくる。特に負傷している場合は「時間の問題」だった。南方特有の病魔であるマラリヤ・デング熱・アミーバ赤痢など、また栄養失調に将兵の五体は冒され、衰弱し、約5日後には白骨体として路上に散り残される。

むろん野戦病院もなく、ただ、部隊の衛生兵がいるだけである。それも包帯と正露丸、ヨーチンぐらいしか所持していなかった。

さしもの皇軍も敗北の途上にあることを痛感せざるを得なかった。

当時の105師団通信隊は約363名であったと記憶する。

優先電話機は92式、無線機は3号甲であったが、部隊の移動中はまったく機能を果たすことができず、ほとんど無用の長物であった。自分は3号甲の発電機を力一杯回転させて腕力の疲れを体験したものだった。また重さ20キロというバッテリーを背中に負って何キロか山野を歩いた。その間にバッテリーの液が漏れて上着はずたずたになり、背中に硫酸の跡が残り、身体中とてもかゆくてたまらなかった記憶を今日新たにする。

 フィリピン戦場を偲ぶ

(一)

フィリピンの地を踏めば

いくさの日々がよみがえる

この地で果てた戦友の

明るい笑顔が胸を刺す

(二)

はるかルソンの戦場の

あの日の激しい戦闘よ

若くて散った尊い命

友の無念を忘れまい

鎌田大吉

ルソン戦の友に捧げる句

一、

秋深し

異國に死せし

友の声

一、

灼くる國

ルソンの山野

友眠る

一、

常夏の

ルソンで散し

碑の戦友ら

鎌田大吉

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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