鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第二話 1/3
第一章 内地編
生涯の友との出会い 

隊内の消灯は夜9時頃だった。そして消灯後、初年兵たちがよく夜中にしくしくと泣いているのが聞こえた。

時には自分もその一人であった。ある日、理由もなく古兵殿に激しく殴られたことがある。

古兵殿の虫の居所が悪かったのであろうか、この時はただ悔しさと腹立ちとでどうしようもなく、しくしくと泣き続けていた。

自分の隣にU上等兵がいた。愛媛県の出身の人で、初年兵の教育係だった。自分がベッドの中で泣いていると、U上等兵は小さい声で、

「鎌田泣くなよ、軍隊ではみんな誰もが初年兵時代の苦しい日々を過ごしてきているんだから、辛抱するんだ」

と優しく慰めてくれた。そんなことが何度かあった。

彼は自分の救いの神様でもあった。後日、自分たちと同部隊でルソン島にて砲煙弾雨の中、ともに九死に一生を得た戦友・U君が彼の兄さんであったとはまったく夢のような奇遇である。

自分はU君ご兄弟より厳しい軍隊生活の中、明るい心の大きなる支えを与えられた。紙上を借りて、ここに感謝の念を新たにしたい。

やがて軍隊生活にもだいぶ慣れてくると、要領もわかり、古兵からもらうビンタの数も少なくなってきた。

若干心の余裕も出てきたが、また一方で初年兵の大きな悩みが到来。それは

「腹ペコ」

であった。

「腹が減っては戦が出来ぬ」

と昔の人はよく言ったものだ。三度の飯が非常に待ちどおしい。

わが丸亀部隊の主食は大豆・麦・米少量の、いわゆる“大豆飯”と称されるもので、最初はなかなか食べる気になれなかったが、しかしこれを食べざるをえず、その結果胃腸の調子を悪くして下痢の連続であった。

毎日厳しい教練が続く。広い丸亀錬兵場で、完全軍装で倒れるまでかけっこする。

落伍は絶対許されない。厳しい班長殿の指揮下である。

また自分たちは通信隊であったので、3号甲の無線機の操作の教育を受けた。モールス打電、モールス受信などである。

重い発電機の操作には閉口したが、しかしモールス信号は覚えやすく出来ていて、自分のぼんくら頭でも簡単だった。

今でも当時を懐かしんで

「イトー・ロジョウホコー・ナロータ・ヤキュージョー・クルシソー」

と口ずさんだりするが、そういう具合に毎日が

「クルシソー」

なる軍隊生活であった。

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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